21.02.2022
在ウクライナ日本大使館リヴィウ事務所
土曜日の朝、リヴィウの臨時事務所で勤務されている在ウクライナ日本大使館のKさんがうちに尋ねてきてくださった。
大使館の首班はポーランドに退避され、キエフは業務を縮小、リヴィウのドニステルホテルに臨時オフィスを開くとのお知らせをいただいたのが月曜日のことだった。
その時点ではリヴィウのオフィスには現地職員だけが残るのかと思っていたのだが、金曜日の朝にKさんという女性からお電話をいただいた。
初めて見る電話番号なので、誰だろうと思いながら出てみると、見知らぬ日本人女性の声が流れてきた。
「日本大使館のKと申します。今週からリヴィウのドニステルホテルにオフィスを開きましたので、何かありましたらいつでもご連絡ください」
穏やかで柔らかい女性の声で、ほんの少し関西訛りがある。
声は穏やかだが大変しっかりした話し方で、こちらの事情、環境を説明すると、いちいち丁寧に「分かります、分かります」と言ってくださりながらも、緊急時の避難計画、非常時の行動の仕方、避難場所、準備しておくもの、必要になるものなど、事細かに説明してくださった。
私がリヴィウを動けない事情もご存知で、理解を示してくださるのがありがたかった。
ここしばらく日本の知人やメディアの人とお話したのだが、なかなか話が通じなくて疲れていたせいか、「病気をしないようにして、頑張ってください」と言われて、涙がでそうになった。
Kさんの来訪
翌土曜日の午前中、朝風呂に浸かっていると、再びKさんからお電話がはいった。
近くにいらっしゃるとのことなので、20分ほど待っていただくことにして、急いで服を着、髪を乾かす。
Kさんの待つコンビニの入口に駆けつけると、荷物を入れる棚の傍に、ウクライナ人にしては小柄で、ウクライナ人にしてはきっちり丁寧にマスクを付けた女性がいたので、すぐにその人だと分かった。
その人は私を見るや30度の礼をされ、「Kです。本日は急に申し訳ありません」と、更に低く頭を下げられ、素早く名刺を差し出された。
その時、恐縮しながら差し出された名刺の名前を見て(名字は前日聞いていたが、名前は聞いていなかった)、初めて、目の前の人が大学の先輩で同じ研究室に所属していたKさんだと分かった。
そんなにありふれた名字ではないのに、あまりにも疲れていたので前日は気付かなかったのだ。
私とKさんは、在籍期間こそすれ違いだったものの、同じ研究室に籍をおき、同じ年に北海道大学スラブ・ユーラシア研究センターの中村・鈴川基金奨励研究員として学んだ間柄だった。
研究会の打ち上げで何度かお目にかかっているはずだ。
私は鈴川の翌年にロータリー財団の奨学金をいただいてリヴィウに来た。
そして、それ以降15年間、3ヶ月程度の日本滞在期間を除いてずっとこちらにいるのだが、Kさんの方はその後外務に進まれたらしく、ペテルブルクで5年実務を積まれた後、2020年からキエフに来ているとのことだった。
研究分野が違うのでお話したことは1,2度しかなかったが、こういう状況で旧知の人に会えるとは思っていなかったので、感極まってしまった。
前日電話でお話していたときから、異常に話があう気がしていたが、状況、今後の対応に対する考え方が共通していて、とても話が早いのがありがたい。
お互いに猫を飼っているということもあって、この日も、気がつくと2時間近く話し続けていた。
マスコミ
Kさんとも話したのだが、現在、ウクライナ、とりわけリヴィウには日本や欧米諸国からの報道陣がたくさんきている。
中には軍に並走してそれを撮影するようなのもいるし、またそれを脇で撮って自分のSNSにアップするようなのもいる。
リヴィウにも明らかに現地の人ではない集団がちらほら目につく。
特に、先週、アメリカ、日本をはじめとする各国外交官に退避勧告が出て、当該国がキエフの大使館を縮小、リヴィウに臨時オフィスをおくようになってからは、一般の外国人やウクライナ人の中にも東部やキエフからリヴィウに移ってくる人が増えた。
そして、こうした人たちを追って、各国のマスコミが入ってくるのだ。
私のところにも、日本語の元生徒や通訳・翻訳をしているウクライナ人から、「いま日本から○○○TVの人が来てるんですが、取材受けますか?」というお話が何度か来たが、全てお断りした。
お話だけは何度か聞いたが、正直、あまりにも論点が噛み合わず、一向に話が進まなかった。
こうした日本やアメリカ、西欧のマスコミの人が聞きたがっているのは、「ロシア嫌いのウクライナ人」と「ロシア好きのウクライナ人」の声であり、「巻き込まれた外国人」が困っている姿なのだなぁと痛感するしかなかった。
彼らにとっては、紛争は人々が食いつくネタなのだろう。
ネット時代の紛争報道ってこんなものなんだなぁと思いながら、通訳を引き連れた外国人の一群を見ている。